気温34℃
- サマソニとソニマニに行くのでバスのチケットを取っていた。和歌山駅から海浜幕張駅まで1直線に向かうバスが9000円。実家のある海浜幕張と、いま私が住んでいる和歌山市。これら2つの地点はバスで繋ぐだけの価値があるルートに上にある。和歌山市への移住がいかなる意味でも都市からの脱出ではなかったことが再び思い出される。
- ちょこちょことやることがあってうまく時間を捻出できていない。法務局に行って変更登記を済ませねば。買った芝刈り機をぶん回して公園を勝手に管理せねば。ライブの準備をしなければ。前後にバッファが3時間くらいないとまともに作動しないやる気をどうにかしたい。
気温34℃
- 長谷川白紙のインタビュー記事を読んでいた。Brainfeederは憧れのレーベルなのでちょっと悔しいが、尊敬してしまうし、おめでたいという気持ちでいっぱいだ。
- 自分の作った曲をSpotifyやYoutubeといった増幅回路を通じて「聴衆」に届けることを求める限り、私の音楽が人の聴覚の自由を一定時間にわたり制限し、その制限に伴う諸々の不自由も追加的に強いることになる。そのことは何をもって正当化されるのか。
- 少なくとも白紙のように身体の複雑性、撹乱性を提示することそれ自体は、目的性はあれど、目的があるから正当であるという話ではないはずなので、この記事に答えはない。
- 聴衆の各人は自由な意志をもち、それを行使しているのであるから許容されるという考え方がある。これは支持できない。人はそのような人権思想の根本を支えるような意味での自由をもってはいないと思うし、私は私の音楽を誰が聴くかについて精密にコントロールできるわけではないので、人が仮に自由であったとしても、私が相手取っているのはその部分的自由の総和ないし総乗としての「聴衆」であり、そのようなのっぺらぼうの集まりに自由は認められない。彼らは構造的な制約を強く受けている。また、私が社会に対して責任を負うことの実行可能性は決して自明ではない。その行為が法的に構成されうるものでないのであればなおさらである。
- 何らかの効用を期待して自らの自由を賭けるという営みに、音楽を聴くことも含まれるというのであれば、その賭けのリスクとリターンがよく把握されていなければならないだろうか。少なくとも音楽は金融商品ではないのでリスクとリターンの基本原則は適用されないから、その不均衡の度合いは問題にならない。おそらくここで問題にすべきは、賭けられた自由の構造であり、効用と自由の関係である。
- 実感として、音楽に自由という賭金を投げ入れたときに得られる効用とは、私の自由を構成する根本的なものの変容である。説明し難いが、言葉より前の私のなかの何かが変化すると私は音楽から効用を得たと確信することができる。グッドな音楽だけが効用をもたらしているわけではなく、聴くに耐えない音楽もまた私に効用をもたらしているような気もする。
- そういえば、寝起きに布団を枕にして低予算アニメを見ていたのだが、そのアニメで使われているクソみたいなOP・EDの曲に苛立ちを感じた。あれもまた効用なのだろうか。
- なんというか自由を引き合いに音楽を聴かせることの正当性を考察するのは無理がある気がしてならない。自由という賭金の質的な変容を望んで音楽を聴いている以上、私にとって自由とは固定したものではなく、何か別の変幻自在な現象の暫定的な用語でしかない。そのような幻のかたちをやんわりと保ちながら議論を進められるほどの言語能力を私はもっていない。そういうのは専門家に任せたい。
- 私は啓蒙主義的な自由よりは実存主義的な自由の方が肌に合うと感じるし、また神と人間という構造や、人間的意識=対自と即自という構造よりも、フーコーのように人間を発明されたものと捉える構造の方が現実のあり方に適うように思えて仕方がないたちである。基本的人権や、調和のために放棄されるべき自然状態というものの自明性は疑わしい。
- 世界は根源的に偶然の賜物である。私は偶然性の冷えた恐怖から目を背けるために必然性の闘争をしている。おそらく他の人も多かれ少なかれそういう側面がある。必然性のなかに少しだけ偶然性を混ぜるとか、逆に偶然性のなかに少しだけ偶然性という真実を混ぜ込むのが、この闘争のうまいやり方である。事実、音楽はそのようにできている。人の自由を奪うためには私なりの目的が必要である。その目的を達成する上での狡猾さも求められる。
- 身体は複雑であり、かつ、身体は物事を撹乱する力をもつということを提示するための闘争をうまくやる上でどのような狡猾さが求められるのだろうか。目的のなかにもう狡猾さが潜んでいるような気もしなくはない。
気温、変わらず34℃
- Todoistを整理した。なんだかんだTodoistが一番使いやすい。
- Notionでタスク管理してる人をよく見かけるが、彼らはどれだけ忍耐強いのだろうか。チームで使わされてるのならわかるが、個人でやってる人の日常には余白が足りないのではないか。
- ダラダラとタバコを吸うように、電動ミルのボタンを押して15秒を無心で数えるようにタスクを管理するのが日常のタスク管理なのではないか。日常のタスク管理の基盤には無計画性が据えられるべきである。