雑記 2023/02/24 金融芸術

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NotionAIで要約してみた↓
このドキュメントは、ビジネスと芸術の関係性について、その複雑性を掘り下げた興味深い考察です。著者がビジネスに批評がないのはなぜか、そしてビジネスは芸術であるのかという問いを提起し、金融が芸術であると仮定した上で、その仮説を探究しています。
著者は、ビジネスとは何かという問いに答えるために、ビジネスを「何かを生産したり、何事かによって営利や便益を得ることを目的とした継続的行為」と定義しました。この定義の中で、ビジネスは文化的な活動であり、伝統や革新、再発見など、芸術にも共通する特徴を持っていると考えます。この点から、ビジネスが芸術の一形態であるかどうかを探究することになります。
著者は、芸術とは、メディアとゆるく関連づけた広い定義を提唱します。そして、この定義に基づき、ビジネスが芸術であると仮定し、ビジネスのメディアを「マネー」と定義します。この定義により、ビジネスがお金の稼ぎ方や経費に依存していることが明らかになり、芸術とお金の関係についても探求することになります。
そして、お金が持つ複雑性について著者は掘り下げます。お金は価値を保存し、測定するための媒体であり、徐々に規格化され、交換されるための情報の標準化に向かっていると著者は指摘します。お金と信用の関係についても探究し、この関係がお金の規格化や純化に影響を与えていることを示唆します。
このドキュメントは、ビジネスと芸術の関係について深く掘り下げ、お金がその関係に与える影響を考察しています。著者の考察は、その深さと洞察力により、ビジネスや芸術に興味がある人にとって、価値ある読み物となるでしょう。さらに、お金に着目し、お金が持つ複雑性や規格化の過程について掘り下げることで、読者はビジネスや芸術に限らず、お金が持つ多面的な性質を理解することができます。
本業で金融系の新規事業企画に従事している関係でずっと疑問に思っていたことがある。なぜビジネス(事業)には批評がないのだろうか。なぜビジネス(事業)は芸術ではないのだろうか。
ここで自分がビジネス(事業)というのは、何物かを生産したり、何事かによって営利や便益を得ることを目的とした継続的行為のことである。面倒だから事業と呼ぼう。
事業は対象物(何を売るか)においても、仕組み(どう売るか)においても、いわゆる芸術の世界で見られるそれより遥かに多様であり、いってしまえば「文化的」である。伝統も革新も再発見もお手の物でまったく見ていて飽きない文化である。もちろん事業のクソなところはいくらでも思いつくのだが他方で芸術のクソなところもいくらでも思いつくので、クソなところにばかり目を向けていてもしょうがなかろうと。それで少し飛躍して事業を芸術として捉えてみるのも面白そうな気がした次第。
事業はなぜ芸術ではないか、という問いに答えるためには芸術を定義する必要があるのだが、それは面倒なので少しずつ問を横にスライドさせて考えていこう。まず暫定的に芸術をゆるくメディウムに関連付けておこう。美学に疎い自分にとってメディウム・スペシフィシティの考え方は明快で便利である。だいたい、無視され続けてきた「芸術っぽいかもしれない領域」と今っぽいやり方で戯れるのは無理がある。いったんはモダニズムくらいの頃に戻っておくのがいいのではないか。
あと、とりあえず事業は芸術である、とも言っておこう。そうすれば「事業のメディウムとはなにか?」と考えることができるようになる。
事業のメディウムでパッと思いつくのはマネーだ。実際、事業の大半はメイクマネーを目指すし、たとえ非営利事業を持ち出してきても、費用の部分でやはりマネーを必要とする。出資でも寄付でも経費でも何でもいいがとにかく事業はマネーとかかわる。
とはいえ絵画や音楽といった芸術もマネーとかかわるという点では事業とあまり事情は変わらない。森を焼いて炭を作れば鉛筆画は描けるし鼻歌だって音楽であるから必ずしもマネーを必要とするわけではないだろうが、それでもマネーを必要とする制作のほうが圧倒的多数だろう。また「文化芸術事業」という事業は公益財団法人などを筆頭に色んなところがやっているわけで、そもそも芸術が事業である場合も少なくない。
あれれれれ。そもそも「事業のメディウムとはなにか?」という問が怪しくなってきた。そこから出発すると「芸術のメディウムとはなにか?」以上のクソデカ風呂敷を広げかねない。事業という部分を別の言葉に差し替えたい。何がいいだろうか。
例えば金融だとどうだろう。金融とは読んで字の如く「カネを融通すること」をいう。さきほどのように「金融は芸術だ」と仮定すれば、金融はまずマネーに関わる芸術と言えるだろう。ただ一般的に金融はマネーだけでなく、マネーが価値の尺度になりうるあらゆる資産を融通する。資産というのは未来において何らかの利益を生み出すことが期待される所有財産のことであるから、金融はマネーだけでなく、未来や時間に関わる芸術でもありそうだ。
もう少しマネーについて考えてみよう。教科書だとマネーには3つの機能(交換、保存、尺度)がある、みたいな機能にフォーカスした説明の仕方があるが、理論的にはもっと複雑に対立しているので、おそらくあの説明は理論的な対立の障らない部分をやんわりと表現しているだけだろう。とはいえ、マネーは価値を保存できるからこそ、財A→マネー→財Bの時間的な隔たりを乗り越えた交換を成し遂げることができるのだし、またそうやってあらゆるモノと交換できるからこそマネーは価値の尺度となりうるのであって、そこまで悪い説明だとも思わない。例外的な事象はいくらでも思い浮かぶだろうが、ざっくりとマネーとはそういう3つの機能をもった「媒体」なのだと捉えておいても問題はないだろう。
では金融という芸術が、マネーというメディウムを純化させるとどうなるのか(メディウム・スペシフィシティ?)。大昔の金や銀、あるいは金本位制のマネーはそういう機能をもつ媒体としては未完成であった。使えない国では使えない金貨。外国為替も容易ではない。突如として金鉱脈やその貿易ルートが見つかり金の価値が下落したりもする。しかし現代においては貨幣の純化が進み、銀行預金とかクレカの信用枠のような形でほぼ完全に無体化し、最後に残された有形の貨幣である現金通貨も徐々にCBDCのような形で無体化に向かいつつある。この過程においてメディウムとしてのマネーは交換のための規格化された情報へと純化しつつある。逆に純化があまりにも不十分だとマネー未満の「有形/無形の資産」となる。
しかしなぜそのように純化されていったのか。マネーというメディウムの内部にそのような契機がありそうではないか。たとえばマネーは根本から「信用」に関わる。いや、一般的には金融が信用に関わるのであって、マネーは信用とは関係ないと考える人もいるかもしれない。たしかに例えば消費者金融は「彼は昨日までのようにこれからも働き、100万円をいつか返すであろう」と考えマネーを日々融通している。ここで信用が関係しているのは債務者の当人の過去の活動とそれを評価する消費者金融機関であり、借金の額それ自体は信用とは関係なさそうにも見える。だが、この日本円建ての債権・債務関係において日本円というマネーが将来においても100円で缶ジュースを買うことができるだけの価値を保つかは不確定である。
なぜなら現金通貨は国家権力やその影響下にある経済への信用を価値の根拠に含めるからである。そのことは現金の強制通用力が法律によって規定されている点に注意を払えばすぐにわかることである。また銀行貨幣(預金通貨など)も現金通貨に結びついてるのであまり事情は変わらない。追加的に銀行という民間機関への信用も必要となるだけである。このようにマネーはそれ自体が別の主体への信用を要請するのである。
信用は目に見えないものだが、しかし過去には基づくため(※)信用の程度や根拠を他者へ(あるいは取引相手に)説明することはできる。説明は共通理解のための行為であるのだから、説明の媒介は共通理解しやすい形にまとまっている方がいいし、イレギュラーも少ない方がいい。胡椒の価値がわからない国で胡椒を売るとか、金や銅が思ったよりもいっぱい取れるようになったというような事態は避けるべきである。だからマネーは規格化されたのである。金貨→兌換紙幣→不換紙幣という形で有形の規格はより洗練されていき、またより柔軟な無形の預金通貨やCBDCが拡大しているのもその流れの一部である。通貨は信用と関わるがゆえに規格化され無形化していくのである。
※過去に基づかない信用とは祈りであり奇跡であってもはやそれを信用とみなすことは不可能であろう。神は信用に値しない。
はい。金融のメディウムとはマネーであり、金融を芸術のいち領域として考えるなら、マネーの信用という特性といかに巧みに戯れるかがメディウムスペシフィックの観点から重要になりそう、と。ビジネス(事業)は芸術なのか、みたいなスタート地点とはかけ離れてしまった印象もあるけど、大半のビジネスは広義の金融取引をやってるので問題はない気もする。イケてる新しいビジネスモデルの芸術史的意義を語りたい、みたいな願望が出てこない限りは大丈夫でしょう。
飽きた。以上。