雑記 2023/01/01 旧暦、歴史、流通

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ふとなぜ中国では旧暦を祝うのに日本では新暦の正月しか祝わないのかという疑問が浮かんだ。新暦への移行は明治5年と6年の境目で行われたようなので、今の私たちにとっての1月1日という時間は、まだ150年やそこらの歴史しかないわけだ。数世代も遡れば今盛り上がっている初日の出や初詣などの行事に確かな違和感を覚える人と出会えるだろう。
ネットでちょちょいと調べてみると我々がなんとなく知っている旧暦というのも、その成立は割と最近の1840年代のことであり、太陰太陽暦(月と太陽の両方を考慮する暦)が導入されたのもそれより少し前の1680年代のことである。それ以前はずっと太陰暦が主流であったそうだ。
新暦と旧暦のあいだの時間感覚の差というのは結構大きいと思う。私たちはグレゴリオ暦のおかげで均質な時間を生きられている。時間に偏差が生じるのは4年に一回の閏月と、何年間に一度の閏日くらいだろう。しかし、旧暦においては大胆にも閏月が存在したりする。それも4年に1回とかいうわかりやすいやり方ではない。
また、暦やそこから演繹的に導かれる年月日時分秒という時間の拘束具の効力も今と昔ではまったく異なるだろう。明治5年と6年とのあいだにどれだけの人々が粛々と暦の移行に従い、従わなかったのか。あるいは無関心であったか。明治期、まだ「日本」は、その「日本」という自らの物差しにおいて空間的に非均質であったことはよく知られているが、おそらく時間的にもそうであっただろう。いや、素人の想像でしかないから誰かいい文献を知っていたら教えてほしいのだが。
むかしケンミンSHOWか何かで沖縄の人は時間にルーズだとか、イッテQでアフリカ大陸のどこの国の人と待ち合わせしたら悪気もなく1日や2日遅れてやってきたとか、そういう類のエピソードを耳にしたが、彼らからすると、現代において観察される「あの仕事、明日の12時までにやっておいて」という管理職や、「本契約の期間はxxxx年xx月xx日からxxxx年xx月xx日とする」と刻まれた契約書等々の存在は異質なものと感ぜられるのではないか。「この仕事、春の終わりまでにやっておくよ」というだけで双方の信頼が成立する世界の方が美しく感じられるが、さてどうだろうか。
少なくともあかしとの制作においてはスケジュールを明確に切ることもあるが、それは戦略的な問題であり、あかしと僕の2人のあいだでは非算術的な信頼が成り立っているため、実際には「なんかそういう感じで」の一言でなんとなくのざっくりしたスケジュール感が決まったりする。人と人との有機的な信頼というものは、そういうことを可能にする。そこにリスク算定や利子のようなものは存在しない(もちろん裏切れば何らかの制裁が発生したりはするだろうけども)。
また音楽においてもMIDIやBPM、拍子(=分数)が自明の共通規格として普及しているが、その淡白さに辟易とすることはままある。Ableton Liveのaltキーを押下しながらのクリップの移動はこうした共通規格から逃れるのに有効なTipsだ。

別の話。
↑の暦についての議論を妻とやっていた。妻の同僚がたいへんな物知りで、その人は中世史に詳しい歴史系の人なのだが、「美術史の自分と違って歴史を流通史とかとも厳密に絡めて捉えていてあなたと話があうかもしれない」と言っていた。
最近仕事でどえらい時価総額のCEOのインタビューを読み漁っているのだが、GAFAだかOpenAIのようなイケイケのIT企業を除けば、彼らはつねにサプライチェーンを気遣っている。どんな時代でも、だ。歴史と流通をまったく切り離して考える癖はやめたほうがいいのだろう。
いつか現代思想か何かの雑誌が流通をテーマにしていたこともあったし、少し前に読んだ柄谷行人の何かの本は資本主義において流通過程で生まれる搾取を問題化していたような気がする(そしてそれが消費運動に向かう理由だとかなんとか)。
今後のイノベーションはまあAIとかもそうなのだろうが、おそらく流通でも漸進的ではない破壊的な変革、要はシュンペーター的な意味でのイノベーションが起きるのではないか。IoTとかドローン、3Dプリンターとかが適切に成熟すればおそらく小売や流通の一部は破壊されるだろうし、もっと泥臭い、それこそフォード式のようなイノベーションなのかもしれない。未来のことはよくわからないが、なんとなく流通を意識して社会を見通すこともやってみたほうがいいのかもしれない。