あくまで音の作り手として、読み手として音楽批評に関わってるだけだから、思うことしかできないのだが、音楽をテクストとして捉えることで広がるミクロな宇宙と、ただそこにあるだけのモノ、従属も支配もないタダのモノとしてのサウンドとの冷たい距離感をいつか解決したいと常々思っている。
音に対する反応は音でやればいい、つまり曲を作ればいいのだが、とはいえ作る前には必ず間主観的に成り立つ構成を前提とした言語や(記述可能な)身体動作が挟まるわけで、やはり批評の可能性が微塵もないとは思えない。
ただどうにも音というものの経験的な構成はちぐはぐであるがゆえに、ジャンル論とか固有名詞と時間的記号の羅列、地道な歴史検証作業ばかりが瀰漫していくし、そこから外れたものの大半も、自分の感性とか聴衆への期待の垂れ流しになりがちだし、さらにその他のものも社会関係のありかたの記述のきっかけにサウンドを利用することになりがちだと。
別にどれも音のつくり手が実際に行うことであるし、(暴力的側面はあれ)然程それが悪いことにも思えないけど、やっぱりなんか、木を見て森を見ず、というように思えてならない
で、おそらくそういう方向性での批評は、不器用にも私的経験をひたすら記述していくことを通じてしか始まり得ず、またそこに一人同じ不器用な人間が集い、徐々にじわじわと協働する構成が生じ、言語が生じる、という仕方でしか深まり得ない。それは音楽と同じことで。
……という妄想はしてみるものの、僕は本当に不勉強な人間で音楽批評なんてまともに触れてないし、(おそらく今の音楽批評の下敷きになってる)思想や美学、歴史学、社会学の古典もまーちょびっとしか読んでないし、歌詞なんてほとんど聞いてないし、音楽を聴く深さも広さも頻度もない。批評の最初の対象物であった文学も全く読んでないし、映画も見ない。
アニメは見る。でも巷のアニメ批評に対しては「アニメーションについては語らんのかいな」と思いながら、そしてまた同時に自分もアニメを見る上であまりアニメーションを重視してはいない、というどうしようもなさである。
どうしようもなさ。
ここで構成とか間主観性というような現象学用語を使ってみているが、じつはこの前、会社の哲学に全然触れてない人に現象学とはどういうものかを説明しようとして途中で自分が何を喋ってるのかわけがわからなくなり挫折した、というこっ恥ずかしい事実がある(確かそのとき形而上学についても同じ経験をした)。そりゃそうである。僕は現象学の古典を読んでない。強いて言うならサルトルを囓ったことがあるくらいだ。卒論で井筒俊彦を取り上げたりもしたが、そのときも井筒俊彦を通読せずに井筒俊彦全集をサンプルパックと見立てて、ひたすら議論に必要なところだけ抜き出して使っていた罰当たりな人間なのである。この不真面目さについて僕はよく恥じ、よく開き直り、また恥じ、挙げ句世界の真っ当な人間の作品をこき下ろしたりもする。どうしようもない。
言い訳ばかりしてないでとっとと勉強をすべきなのだろう。