音楽という充実存在と、われわれの欠如の布置について――「無」が担保する自由に基づく音楽批評の構築に向けて(第1回)

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2020年9月にnoteで公開した記事をこっちにも掲載。多分第2回はない。

音楽を言葉に変換するとき、ある人は文学的な装いをもってわれわれを誤魔化そうとする。ある人は社会の構造について語ることで我々を煙に巻く。ある人はその音楽を生産したところの諸個人を取り巻くスキャンダルを音楽と紐付けてわれわれを生産者の友人たらしめようとする。
わたしもこういった情報から多くを学んだ気になるのだから、これらを一概に否定することはできない。だが、なにか別の手段をもってして、音楽についてより直接的に語る方法はないのだろうか。われわれの言語から遠ざかり、遂に埋まることのない距離を保ちつづける音楽について、「直接に」語らう方法はないのだろうか。
このように提起しておいて、早速音を上げてしまうことにやや恐縮するが、この問題への回答はわたしの手に余る。わたしはこの問題を目前に立ち尽くしている。立ち尽くして、わたしの声に眼差しを向けている(声を眼差す仕方はAlan Touraineから学んだ)。
わたしはわたしの声に眼差しを向けることで、ある1つの手繰り寄せるべき糸口を見つけることができる。わたしの声は音楽の存在と1つも関わりがないという1つの事実であり、この重要な問題の端緒である。
音楽はそれ自体価値をもつものではない。その価値の源泉は音楽を取り巻く、感情的人間や政治的人間、あるいは人間身体等に典型的な諸批評体である。価値はわれわれの手中にある。したがって音楽それ自体はいつでもわれわれと無関係な世界で鳴り響くのだ。わたしがいくら喚こうとも、音楽は喚び起こされない。
わたしはこのことを嫌というくらい知っている。なぜならわたしは音楽の生産者でもあるからだ。わたしが作る音楽は、なに一つとしてわたしの思い通りになるものではない。わたしはラップトップやMIDIコントローラー、弦楽器を目の前にして、はそれらの道具の道具となり、ひたすらに間接的な生産を行う。私の覚束ない記憶が確かならば、その生産作業において、私は必ずと言っていいほど、なにかしらに向けて、合目的的に作業を行っているはずだ。つまり、将来からの確定的ななにかしらのリターンを求めて、それらの機械に働きかけているのである。しかし、驚くことにわたしが得られるリターンはいつでも、いまだかつて聴いたことのない音楽がそこに「存る」という状況そのものなのである。その存在はわたしという存在よりもはるかに充実した存在であるかのように感じられる。そしてまた、わたしはこの充実を目前にして、わたしの存在欠如を知り、わたしの存在に内在的な外部的な存在への拒絶を知るのである。
このようにして人間が司る表現の達成は永遠に留保される。
しかし、生産者が音楽それ自体に直接触ることができないのだとしても、視聴者がそうだということにはなるまい。わたしの欠如存在の生産者ではない部分、視聴者としてのわたしという、もう一方の存在のピースは、音楽それ自体と無邪気に戯れることができるのではないだろうか。
いま一度問い直そう。音楽を聴くところの諸君は音楽と遊戯することが許された存在として成立する存在なのであろうか――ここで付言しておくが、音楽が充実した存在であるとわたしが言ったからといって、音楽の存在としての充実の内実をわれわれは知ることはできないし、また、それゆえに音楽を特権的に扱うことなどできるわけもない。
音楽はわれわれと同じくこの世界に存在している。そして、音楽は世界が一斉に存在を開示する限りにおいて、音楽の存在はわれわれの存在と関係しているが、それと同時に、サルトルのいうところ、われわれは欠如した存在である――本稿は、わたしがサルトルを読んだばかりであるがゆえに、多分にサルトルの存在論から影響を受けたものとなっている――さらにいえば、わたしの以前のnoteにもあるように、わたしは井筒俊彦的な意味での「東洋」哲学に強く感化されている。
ではわれわれの欠如分は全存在のうちのどこに含まれているのだろうか。このような問いは存在者による、有的存在の論理からのみ導かれる誤謬の問いである。われわれは内に「無」を宿す――否、宿すことはできないし、ここで頭に付加した「否」こそがわれわれにとって重要である。要するに、欠如は「無」であり内的な否定である。われわれは否定を<含む=欠ける=無い>存在なのである。このことは自明である。なぜなら、われわれはすでにそうであるように、存在者の論理からしか「無」に向かっていくことしかできないし、ある時点で「無」との無限の距離を直感することができるからである。他方、充実した存在は「無」というものを考えてみることすらできない。さらにいえば思考どころか、認識することも、また認識するところの意識すらも「無」に対して圧倒的な支配力を有し、これを行使して、完全な支配的地位を占めている――わたしはまだ認識と意識と思考との関係をうまく把握できていないから、このことはあくまでも感覚的な語彙によって述べたまでのことである。
思うに、音楽も充実した存在である。わたしは音楽がそれ自体として変化するところを知らない。変化する余地など微塵も感じられない。昨日聴いた音楽が、今日違うものとして聴こえてしまうのは、一重に充実した存在に紛れ込むわれわれのような欠如存在の布置の変化故である。往々にしてこのような変化はわれわれの気分に起因するものである。なるほど、再生機器の宿命としての時間的な劣化を持ち出すというのであろう。しかし、その指摘は的はずれである。なぜなら、音楽それ自体を可聴なものとすべく、空気を震わすスピーカーの僅かな劣化は、ここではまったく関係がない事柄であるからだ。スピーカーという存在は「欠如」しない。なによりスピーカーという充実した存在などどこにもない。われわれ欠如存在がそれと断定する「スピーカー」とは、あくまでもわれわれの内なる「無」が、「スピーカー」や「ニアフィールドモニター」と枠付けよと命じて発生させられた錯覚である。それは「よく枯れた木材」でもなければ、「ツイーターとウーファーの複合物」でもないし、はたまた「スピーカー」などでは断じてない。
このことについては、音楽という存在についても同様のことが言えるだろう。つまり、音楽は「音楽」ではない。それは錯覚である。音楽とは、世界の全存在が一挙に開示される際の存在論的布置の限りで、われわれのような欠如存在が勝手にそれを名付ける――わたしは「名付け」という思想的問題に立ち入るための技術や知識をなに1つ持たないため検討は先送りする――ことができただけの充実存在である。
なるほど、われわれは音楽に一切の欠如もない充実を見出すことができる。しかし、われわれが音楽とよぶところの充実存在は、なにゆえに欠如存在の側から音楽として措定されるのであろうか。あるいは次のように問うてもいいであろう。
欠如存在の側に音楽という誤謬の本質があるのではないか。
(飽きた)
(第二回に続かせてくれ)(3000文字ずつくらいで書くのがいいのか??)(冒頭のジャケットはたまたま聴いてて載せただけ。いい曲だよね、まーきーむーん)
(問いまくってとりあえずの答えが出たらいいなと思って書いてます)